フェルトセンス
フォーカシングはフェルトセンスという、微細な感覚を使って自分を理解していきます。
「何かはっきりしない、漠然としたからだの感じ」を、ジェンドリンはフェルトセンスと呼ぶことにしました。日本語で直訳すると、「感じられた意味」となり、かえって分かりにくいので、そのまま「フェルトセンス」と呼びます。
フェルトセンスは純粋な身体的感覚(打撲の痛みなど)とは異なり、何らかの心理的意味を含んだ身体の感じです。
フェルトセンスは、私たちの日常生活の中で、「注意を向ければそこ(内側)にある」ものです。
忙しすぎる毎日の中では、私たちはフェルトセンスの上を通りすぎてしまっています。
私たちは子どものうちから大なり小なり、自分の思いなんか蓋をしておくほうがいいんだという風にしてやり過ごしてきている(やり過ごさせられてきている)ので、よけい見えにくくなっているのです。
しかし、それでもそれは、「注意を向ければそこにある」のです。
フェルトセンスはフォーカシングの中核概念です。
フェルトセンスに触れることができれば、それはフォーカシングができたということですし、フォーカシングを理解したといって過言ではありません。
ゆったりとした気持ちになって、折に触れて、フェルトセンスを感じることが大事です。
フェルトセンスと「一緒に時を過ごす」こと自体が、私達に癒しをもたらします。
深い充実感を伴って「ああ、こういう感じが自分の中にあるんだな」「今自分は、自分に触れているなあ」と実感するものです。
フェルトセンスに触れることの意義は、子どもと一緒に時をすごす意義に似ているかもしれません。
子どもに関心を持って一緒に過ごしていると、子どもはほんとうに喜びます。
それと同じように、私達の内面は、私達に注意を向けてもらうということをとても喜ぶのです。
フェルトセンスは、本当の意味で自分の一部です。
自分を無視して、自分を理解する事はできません。
自分を理解しない人は、他人にも理解されないでしょうし、無理があります。